水よりも貴重なワイン
ルーマニアがもともと、世界でも有数のワイン産出国であることを
あなたはご存知だろうか?しかも、ワインは悠久の時と運命を経てきたこの国の
歴史的産物であったということもご存知だろうか?
ルーマニアの古代史を紐解いてみると、面白い史実に出くわす。
かつてダキア王国として栄えたルーマニアは、
時のローマ帝国の皇帝ブレビスタ(紀元前82-44)の侵攻を受け、
皇帝の勅令により、ぶどうの栽培を禁止されてしまった。
彼はダキア民族の服従の証しを、ワインに求めたのである。
当時のダキア王であったストラボが、編史‘地理学’の中で
こう説明している。
ダキア人にとって、
ぶどうの栽培ができなくなるなんて考えられないことだった。
ダキア人にとってしぼりたてのワインは、水よりも貴重であり、
ワインを衣服の上から注ぎかけると、幸運が飛んでくると
彼らは強く信じていたからだ。
しかし、この暴君ブレビスタが、大司教デセナエウスに命じた勅令をもってしても
ダキア人の心まで支配することはできず、結果的にこの政策は失敗に終わった。
帝王シーザーにも匹敵する暴君ブレビスタとしては、こんな敗北を認めるはずはなく、
その後もローマ兵を国のあちこちに駐屯させて、ダキア人の動きを封じ込めたのである。
やがて時は過ぎ、ぶどうの力がワイン作りだけではなく、栄養元として
またぶどうの医療的効果も徐々に認められてきた。
今でも使われるラテン語の
ストラグレ(ぶどうの実)、ブツーク(ぶどう栽培)クルペン(ぶどうの種)などは
このダキア王国の名残といえる。
後年ローマはトラーハン治世に変わり、相変わらずダキア王国への圧力を緩めようとはしなかった。
彼の代に出された新通貨‘ダキア・フェリックス’はまさに
ダキア王国侵攻を記念したものであり、屈辱的な支配下にあったダキア王
デセバラス王は、ローマの軍門に下るよりはと自ら死を選んだ。
紀元前106年のことである。
そのあたりの描写を歴史家「バシール・パルバン」はこう記している。
このような時代下であっても、
ぶどう生産は大きな事業であり、
このアカルパチア地方においては、
ダキア王国とローマ帝国の微妙な関係を
象徴する土台をなしていたのである。
当然、ラテン文化圏としての名残は言葉にも継承されている。
例えば「Vie(ぶどう畑)」「Vita(ぶどうの枝)」「Must(must)」
「Vin(ワイン)」「Calcator(圧搾機)」などがそれである。
ルーマニア人がクリスチャンである以上、彼らにとってワインは
キリストの聖なる血を表し、彼らの日常生活そして信仰生活の
あらゆる面で多大な影響を与えている。
まさに洗礼から埋葬までワインとともにあると表現できるでしょう。
賞賛され続けるルーマニアワイン
では果たしてローマの暴君ブレビスタは、
ダキア王国の広大なぶどう畑を、ことごとく焼きつくしてしまったのだろうか?
これは今もって「謎」とされる。
ただワインが、ルーマニアの歴史に及ぼした影響は
想像以上のものであったこは確かだ。
ルーマニア国内にあった、3つのローマ帝国直轄領地で栽培され生産されたワインは、
その後、大きな地位を占めていった。
特にモルダビア地方とワラキア地方では、いわゆる
‘お注ぎ役’なるものが誕生したのである。
‘お注ぎ役’とは、時の権力者たちが度たび催す豪勢な宴や式典の場で、
権力者のコップに、最上のルーマニアワインを注ぐ役であるが、
なんと、‘お注ぎ役’の与えられた地位は閣僚級ともいえたのである。
驚くべきことに、ワインの‘お注ぎ役’は当時、特権階級だったのだ。
素晴らしいワインを堪能した宮廷の人々が、その味をたたえ、深みを語り合い
そして、そのすべては大切な記録として書き伝えられている。
今でも観光客は訪れる地で、当時を彷彿させるいにしえのワインを楽しみ、
当時の記録を読むことができる。
ルーマニア人にとって、ワイン作りの時期は特別なお祭りだ。
この時だけは、たとえどこかで喧嘩があろうと、裁判所でややこしい訴訟が審議されていようと、
そんなものはお構いなし。男も女もワイン畑に群がり、豊かな実りを喜び、
そして音楽とおしゃべりで、夜明けまで楽しく過ごすのである。
男たちは木樽に足を突っ込んで、陽気に愉快にぶどうを踏みつけ、
そして高らかに詩を歌い上げるのである。
今日この催しは、観光客にも公開され、好評を博しています。
時代を越えて、治世者たちは例外なくワインの価値に目をつけ、領地で生産されたワインを
ポーランド、ハンガリー、オーストリア、はては遠くロシアまで売りつけていたことは有名な話だ。
ワインは、当時のルーマニア国家財政の大きな収入源であったのだ。
当然、ワインを最大限支持するパトロン的権力者たち
「ラドゥー1世」「ペトル・ムサト」「ミルチャ・セルバロタン」「ステファン・セルマレ」
「ペトル・ラレス」「ミハイ・ビティアズル」「マテイ・バサラブ」「コンスタン・ブランコビアーノ」
などの功績も見逃せない。
歴史家であり、王子でもあった「ディミトリー・カンテミア」が
18世紀初頭に、ベルリンの学術学会の要請を受けて書かれた‘モルダビア史書’には
中世期のルーマニアにおけるワイン作りや、ワイン産業の振興に影響を及ぼした権力者たちの模様が
克明に描かれている。
コトナリからドナウデルタ・に至るワインカントリーには、修道院や教会によって運営されてきた
ワイナリーや領主たちが所有したぶどう畑などが、それを取り巻く美しい城やマンションと相成って
今でも観光客の人気の訪問スポットになっています。
時代から時代へ、ルーマニアを旅してきた人々が一様に驚いていたことは
ルーマニアワインの持つ豊かな味であった。
1541年にウイーンで発表された著書の中でゲオギウス・ライチャズドーファは、
モルダビアで供されたおいしい食事と、それ以上にワインのすばらしさを手放しで絶賛している。
また、1620年にシャルル・ド・ジョペコートは
美しい丘がつづくこの国には感銘したが、モルダビアのワイン、あれは絶品だ。
まさにポーランドや他の隣国にも、ぜひ知らしめる価値ある贈り物だ。
と評している。
1846年にパリでS.ベランジャーはこう評論している。
ピアトラ産のワイン、それにサコエニ、ラミニック産のワインは、
わが国の最高級ボルブレイ産とその質感においてよく似ている。
琥珀色のところもそうだし…
これはワラキア地方のデアルマレ産特有の味わいだけじゃなく、
同時に他の地方、
ステファネスティドラガサニ、サムブレスティ、セガチア、あるいはコルコバ産にも
同じ評価が与えられてしかるべきだ
と、賞賛の嵐が止むことはない。
なかでも現代のキリストと称される偉大な詩人
パブリオス・オビド・ナソ(彼は悲しいかな17世紀に亡命地ドブルージャのトミスで死亡したが)が
酒の神バッカスも、昂揚のうちに赤面したであろう名作を、次のように綴っている。
この日を歌え、わが詩をもって、わが友バッカスよ。
吹きすさぶ嵐が汝の腕を傷つけようと、歌の翼がそれを覆い
手杯の酒が暖かくそれを癒す
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