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第二章 正教会の信仰

信教

ルーマニアの宗教―正教

正教徒は何を信じているのですか、ふと問われたとき、それに対する確かな答えを私たちはもっています。それが「信経」と呼ばれる信仰箇条です.正教会の信徒ならば、この「信経」の全文は暗記するぐらい知っておかなければなりません.「信経」は、洗礼を受ける時だけでなく、聖体礼儀が行われる度に唱えられます。今、ここにその全文を記します。

我、信ず、一の神・父、全能者、天と地、見ゆると見えざる万物レを造りし主を。ニ又、信ず、一の主イイスス・ハリストス、神の独生の子、万世の前に父より生まれ、光よりの光、真の神よりの真の神、生まれし者にて造られしに非ず、父と一体にして、万物、彼に造られ我等人々の為、又我等の救いの為に天より降り 聖神及び童貞女マリヤより身を取り人と為り 我等の為にポンテイイピラトの時、十字架に釘うたれ苦しみを受け葬られ を顕わして生ける者とせし者を審判する為に還た来り その国、終りなからんを又、信ず、聖神、主、生命を施す者、父より出で、父及び子と共に拝まれ讃められ、預言者を以てかつて言いし、を又、信ず、一の聖なる公なる使徒の教会を我、認む、一の洗礼、以て罪の赦を得る、を我、望む、死者の復活、並びに来世の生命をアミン

この「信経」は、正式には「ニケヤ・コンスタンチノープル信経」と言います。それはニケヤにおける第一全地公会(325年)とコンスタンチノープルにおける第二全地公会(381年)、において出来たものだからです。さて、「信経」では、神であるハリストスが、マリヤをとおして人間になったこと(籍身という)、そして十字架につけらたこと、死から復活したこと、天に昇ったこと(升天という)、この世の終わりに再び来られること(再臨という)、そしてそれらがすべて私たち人間の救いのために行われたことを信じていると表明します。籍身も十字架も復活も升天も再臨も、私たちの理解を超えていることです。しかしだからこそ、「信じる」必要があります。

神 

「信経」では、まず「我、信ず、一つの神」と言います。神様は唯一であることが第一に信ずべきことなのです。 ある人は、神様などいないと主張します。哲学的に考えたり科学的に考えたりして無神論を唱える人もいますが、苦難や不幸の故に「神などいない」と思う人もいます。私たちは、どんなことがあっても無神論に陥ってはなりません。またある人は、自然の中に満ちている力そのものが神であるなどと言います(汎神論)。よく「宇宙の霊的なエネルギイ」とか「科学では証明されない不思議なパワー」などと言って、特別な儀式などをとおしてその力との一致を唱える人たちもいます。しかし、それは私たちの信じる唯一の愛の神ではありません。同じように、「宇宙の根本」とか「世界の第一原因」などといって神を理論づけようとする人たちもいます。論理を組み立てて人間の狭い理解で神を把握しようとし、抽象的な概念として神を定義づけようとします(理神論)。しかし、それは私たちの信じる唯一の生きた神ではありません。 

また、それぞれの自然の中に宿る神秘的な力を神として崇める考え方があって、それによれば山や海や木や岩や星や動物や、そして人間も神になります(多神論)。所謂「八百万の神」であり、偶像崇拝の宗教です。その人々は初日の出を見て太陽を拝みますが、私たちは太陽を創造した唯一の神を拝みます。さらに、そんな多くの神々の中から優位に立つ者を選んで、その一つだけを崇拝の対象にする宗教もあります(単一神論)。しかしそれだと人間の都合によって、神が交替してしまいます。「一つの神」を信じているといいながら他の神々の存在を否定しないので、多神論であることに変わりありません。私たちは、神々の中から一つを選んでいるのではなく、「唯一」の神を信じています。つまり他に神を認めず、絶対的な神様を信じているのです。

私たちは、その唯一の神を「父」と呼びます。それは第一に神の子ハリストスとの 関係を明示しています。つまり神が「父」「子」「聖神」の三位一体の神であることをすでに表明しているのです。三位の「位」とは、「ペルソナ」とか「ヒポスタシス」などと言われる言葉の訳語で、他にも丁位格」とか「個位」など訳されます。普通は「人格」とも言われますが、相手は神様ですから「人格」ではなく「神格」といったほうが正確でしょう。つまり、神には三つの「神格」があるのです。神は唯一の神なのです。神が三位一体であることは、神によって造られた人間の存在の基礎であり、救いの根源です。さて、神を「父」と呼ぶのにはもう一つの意味があります。それは私たち人間との関係です。ハリストスと「父」は本質的な親子関係ですが、私たちと「父」なる神とは本質的ではなく恩寵による親子関係です。私たちは、神様に似せて創造された存在だからです。神様は抽象概念でも無人格な力でもなく「生きたお方」であり、父が子を愛するように、私たちを愛しているという意味も「父」の言葉の中に込められています。

その生きた愛の神は「全能者」です。つまり、「全て」のことが「可能」である、神には何でもできる、神様にできないことは何もない、という意味です。しかし、この神の「全能」を理屈でこね回したりしてはいけません。神様なら○○ができるはずなのに、現実できてないのだから全能なる神などいない、といってはいけません。自己矛盾することは全能の神にもできません(正確にいえば「なさらない」)。愛する子供を憎んでナイフで殺すなどということは人間の親にもできません。能力としてできないのではなく、矛盾しているからできないのです。神様も同じです。しかし、神は「全能」であり、私たちの知恵をはるかに超えた偉大な力をもっておられることは、信仰深く受け止めるべきことです。「神には何もできないことはない」と言った天使の言葉を信じたからこそ、マリヤはハリストス神を生む女性となったのです。

神は全能の力で「天と地、見ゆると見えざる万物」を創造されました。神が万物を創造されたと信じる時に注意しなければならないことは、第一に造った者と造られたものとは明らかに本質的に違うということです。神はこの世を造った以上、この世の中にはいません。この世を越えた存在です。しかし、造られたこの世の中には、その神の創造の力がみなぎっていることは確かです。第二に、神は万物を「無から」創造されました。創造すべき材料が始めからあってそれを組み立てたのではありません。万物には全くの「始まり」があるわけです。「始まり」がないのは神様だけです。第三に、神は万物をすべて「善」なるものとして創造しました。神様が造ったもので、悪いものは何一つありませんでした。「物質は悪、精神は善」という二元論は否定されます。三位一体の神が万物を無から善として創造された、これを信じるところから信仰のすべてが始まります。

イイスス・ハリストス

イイスス・ハリストスとは、「神様が人間になったお方」です。このことを正教会では「籍身」と言います(一般では「受肉」という)。籍身とは、難しく言えば、三位一体の神のうち「神・子」と呼ばれる「神格」が人間性を取ったということです。正教会はこのように明確な答えをもっていますが、ハリストスとは一体どんなお方かに関しては、何百年もかけて論議されたことでした。言い換えれば、さまざまな異端の教えに対して、正しい教えが聖神の導きによって啓示されていったのです。イイスス・ハリストスを間違った目で信仰しないように、ここにその異端を紹介します。第一に、見えない神様が人間の肉体をとる筈はなく、ハリストスは人間のように見えたけどもそれは実は幻である、という異端があります。「仮現論」と呼ばれます。新約聖書にはすでにこの異端に対して論駁している箇所があります。

第二に、ハリストスは、あくまでも人間であって神様ではなく、ナザレのイイススが最高の宗教的人物として神に認められただけである、という異端があります。ある人間が「神の子」として認知されたというわけなので「養子論と呼ばれます。今でもこういう考えをもっている人たちがいます。ハリストスの教えのみを大切にして、籍身については無視しているわけです。

 

第三に、神・子は、神によって創造された超人的存在であると主張した異端があります。その提唱者の名をとって「アリウスの異端」と呼ばれます。聖書の中にあるハリストスの人間的な面と超人的な面をうまく説明しているので、四世紀ごろに大流行しましたが、正教会は第一全地公会でこの異端を排斥しました。

第四に、ハリストスの籍身について、人間は肉体と霊とに分けられるがその肉体の部分が人間で霊の部分が神であると考えた異端があります。その提唱者の名をとって「アポリナリウスの異端こと呼ばれます。これはハリストスには人間としての霊がないといっているのと同じですから、単に動物に籍身したことになってしまい、ナンセンスです。

第五に、ハリストスの神としての本性(神性)と人としての本性(人性)を、きっぱり分離して考えたために、あたかもハリストスの中に二人の人格があるかのよう主張する異端があります。提唱者の名をとって「ネストリウスの異端」と呼ばれます。ネストリウスは、実はマリヤを「生神女(神を生んだ女性)」と言ってはならないと教えたのです。マリヤはハリストスの人性を生んだのであって、女神であるかのように神性を生んだのではない、という理由からです。しかし、生まれたハリストスは一つの神格しか持たないお方ですので、「神を産んだ」ということができます。つまり、正教会は「生神女」という用語を正統的なものと認めました。

第六に、ハリストスの籍身の瞬間、偉大なる神性の中に小さな人性は溶け込み、変化し消失したのであってハリストスはもはや人ではなく神でしかない、という異端があります。I・ハリストスに一つの本性しか認めないので「単性論」と呼ばれます。しかし、これは本性と格の区別の混乱によるものと思われます。私たちにとってハリストスは、一つの格(神格)と二つの本性(神性と人性)をもつお方です。そして、その二つの本性は、「混合せず変化せず分かれず離れず」に完全に一致しています。 

第七に、「単性論」の延長として「単意論」という異端があります。ハリストスに神としての意志しか認めない考え方です。ハリストスは神の意志と人の意志の両方をもっているというのが正教です。第八に、イコンは偶像でありイコンを描くことは神学的にゆるされないと教える異端があります。しかし、ハリストスは人間の体という見える形もとったのですから、籍身を正しく受け止めるならば、イコンの正しさが認められます(第六章の①を参照)。

ハリストスとは、完全に人間になった神様である、というのが単純でしかし理屈を越えた信仰なのです。籍身は、「我等人々の為、又我等の救いの為」になされたことです。神は人間になって何をなさったかというと、もちろん神の国の福音を教えましたが、それは、救いの業というより、救いとは何かの解明です。ハリストスの救いの業は十字架と復活なのです。

籍身された神・ハリストスは、今から凡そ二千年前、ユダヤの地にナザレのイイススとしてマリヤから産声をあげました。イイススとい名前は「救う者」という意味をもっています。

聖神

一般では「聖霊」と言いますが、正教会では「聖神」と言います。「聖神」の「神」は、ギリシャ語の「プネウマ」英語の「スピリット」を意味します。日本正教会では、神の「プネウマ」や人間のもっている精神的(スピリチャル)な面を表すものとして「神」という言葉を選んでいます。「神(かみ)」と同じ漢字なので区別するために右肩に「゜」をつけて「神゜」と表記することもあります。しかし、いわゆる「神父」という言葉も実は「神様の父」ではなくっ「神の(スピリチャルな)父」という意味なのですから、全く特別な言葉というわけではありません。「霊」という言葉は、ギリシャ語の「プシヒー」英語の「ソウル」もしくは「ゴースト」に当たる言葉であり、どうしても「幽霊」や「動物的な霊」をイメージしてしまうので、正教会では「聖霊」ではなく「聖神」という用語を大切にしています。

   

正教会では、聖神を「撫他者(なぐさめるもの)」と呼んでいます。これはギリシャ語の「パラクレートス」の訳で、「助け主」とか「弁護者」と一般では訳されたりしていますが、もともと「そばに呼び寄せられた者」という意味をもっています。正教会は、聖神を私たちのそばに降りてきて私たちを苦難、苦悩、罪、そして死から救い慰めるためにハリストスと私たちを一つにしてくれるお方として、日々その降臨を祈り求めます。

教会

教会とはギリシャ語の「エクレシア」を訳した言葉です。「エクレシア」とは、神のみ旨と業を行うために「呼び集められた者たち」という意味です。教会は単に「聖書の教えを聞く集会」ではありません。また教会の建物だけを意味するのでもありません。教会はハリストス神が私たちのために作られた聖なる共同体です。ですから、私たちは、教会を信じる信仰をもっていなければなりません。私たちは、教会をとおしてハリストスによって聖神において救われると信じています。

「信経」では、「又信ず、一の聖なる公なる使徒の教会を」と言います。つまり、教会とは「一つ」であり「聖」であり「公」であり「使徒」であるのです。

教会が「一つ」と言われるのは、教会を教会たらしめているお方が「一つの神」だからです。現実的に人間一人一人は教会に属したり離れたりします。異端者は教会の正しい一致を妨害するものとして教会の外に出されます。そして、歴史的な現実として正教から旧教、新教が分離していきました。しかし、こうした現象にもかかわらず、私たちは教会は一つであると信じます。教会は罪深い人間の集まりである一方、その本質は「聖」であるからです。

教会が「聖」であるのは、神が「聖なる」お方だからです。つまり、教会に「聖性」を与えているのは神様です。教会は聖なる人々が集まる所ではなく、集まった人間が神の聖性にあずかることのできる所なのです。教会は聖ですが、教会に集まる人間は弱く不完全です。しかし、その罪深い人間が、教会をとおして聖なるものになっていくことができます。

教会は、「公」でもあります。「公」とはギリシャ語の「カトリック」を訳した言葉です。「カトリック」とは直訳すると「十分」とか「完全」とか「無欠」という意味です。もちろんこれも神様ご自身の「完全性」に教会が預かっているということです。教会の「カトリック性」は、時間と空間をとおして普遍であるというテーマで理解されています。つまり、どんな時代どんな場所でも変わらない真理(つまり正しい神を正しく信仰すること)を持っているということです。正教会は、こうした真理を保持しているという意味で「カトリック(公なる)」教会です。しかし、ローマ・カトリックが主張するような形式的、習慣的または機構的な普遍性という意味では「カトリック」ではありません。

「信経」は最後に「使徒の」という大事な一言を忘れていません。「使徒の」という言葉は、ギリシャ語の「アポストリキン」を訳した言葉で、「派遣される」という意味を持っています。ハリストスも聖神も父からこの世に「遣わされた」お方です。教会が「使徒」であるのは、第一にこの「使徒的な」ハリストスと聖神の上に存在していることを意味しています。ハリストスはその弟子たちを使徒としてこの世に「遣わし」ました。「使徒の教会」とは、第二にこの「使徒たち」から連綿と継承されてきていることを意味します。そして、第三に、教会の目的自体が、この世で神の国を証しするために「遣わされている」ということを意味しています。 私たちは、正教会がこのように「一つの   聖なる公なる使徒の教会」であることを信じています

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