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第五章 正教会の祈り

機密

ルーマニアの宗教―正教

正教会で行われる祈り全体を総称して「奉神礼」と言います。奉 神礼とは、ギリシャ語の「リトゥルギア」の訳です。「リトゥルギア」 とは「公の仕事」という意味です。正教徒が、神を正しく讃美し感 謝し、祈りをささげるというのは、神の民としての当然の務めなの です。さらに言えば、人間はそもそも奉神礼的被造物であるのです。 人間は祈りによって神と交わるように造られた存在であるというこ とです。

正教会の奉神礼の中には「機密」と呼ばれる祈りがあります。「機 密」とは、ギリシャ語の「ミステリオン」を訳した言葉です。他にも「サ クラメント」と呼ばれることもあります。「サクラメント」とはも ともとラテン語で、軍隊への入隊式を意味していました。それがや がて教会の信徒となる奉神礼である「洗礼」を指すようになったと 言われています。「ミステリオン」というギリシャ語は、「ミステリ イー」という言葉と同じ語源です。すなわち「神秘」とか「秘密」とか「謎」いう意味をもちます。

しかし、「ミステリオン」は、その「謎を解き明かす」という意味をも含んでいます。正教会の「機 密」とは、神の見えない神秘的な恵みを、見えるものをとおして自 分の身にうける、ということです。例えば、洗礼は、水という見え るものをとおして、ハリストスとの一致という神秘的な恵みをいた だき、「罪の赦しを得る」のです。

この世にある物や形や行為が、神様との交わりをもつようになる ということを「機密」と呼ぶなら、正教会の奉神礼はすべて「機密的」 ですし、また私たちの生活や人生そのものが「機密的」にならなけ ればなりません。私たちは肉体をもって人生を送っていますが、そ の人生全体が神とのつながりのうちにあることが、一番肝心な「機 密的」なことです。ただし、正教会で単に「機密」という時、それ は今では、普通、次の七つの奉神礼を意味します。この機密は、「洗 礼機密」以外、正教会の信徒でないとあずかることはできません。洗礼(せんれい)機密 傅膏(ふこう) 機密 聖体(せいたい)機密痛悔(つうかい)機密婚配にんぱい)機密神品にんぴん)機密聖傅(せいふ)機密、 洗礼機密は、クリスチャンとなるための機密です。水の中に三度 沈み、三度起きあがるという行為によって、ハリストスと共に死に、 ハリストス共に復活するという恵みが与えられます。簡易的に頭に 三回水を注ぐという形も行われます。正教会では「至聖三者(三位 一体)の名」によって洗礼を受けなければ、洗礼とは認めません。 洗礼機密とは、新しい人に生まれかわる、という意味もありますの で、一生に一度しか洗礼機密は受けられません。洗礼を受けた人に は聖名(クリスチャンネーム)がつけられます。聖名は数多くの聖 人の名前の中から選ばれます。その聖人にあやかり、とりなしを願 い、天上の教会とのつながりをもつためです。洗礼者は、「洗礼着」 と呼ばれる白い衣をまといます。そして「ハリストスによって洗を 受けし者、ハリストスを着たり」と歌い、ハリストスを「身につけ る」生活が始まったことを祝します。

聖体礼儀

聖体礼儀は、正教会の中で最も中心的な奉神礼であり、最も重要 な機密です。「機密」というのは「見える」この世の物と「見えな い」神の恵みが一つになることです。ですから、神そのものである ハリストスが私だちと同じ肉体をとられたこと(籍身)が、機密の 基礎となります。その籍身されたハリストスと私たち一人一人が繋 がりをもち、交わり、一つに合わさるための最も重要な機密として ハリストス自らが聖体機密をお与えになりました。

現在、正教会で行われている聖体礼儀にはいつくかの種類があります。 山聖大ワシリイの聖体礼儀 聖大ワシリイが作成したといわれる聖体礼儀で、現在、正教会で、 年10回だけ行われています。

(2)聖金口イオアンの聖体礼儀 ほとんどの主日、祭日に執行されるもので聖大ワシリイの聖体 礼儀を少し短くしたものです。普通、「聖体礼儀」と言えば、金口 イオアンの聖体礼儀を指します。

(3)聖グリゴリイの聖体礼儀 復活祭前の準備の期間である大斎と呼ばれる時期に、晩課の祈 りに続いて御聖体を領聖する厳かな奉神礼です。その御聖体は、先 の日曜日に余分に作られて準備されるので、またの名を「先備聖体 礼儀」といいます。  他にも、聖イアコフの聖体礼儀や聖マルコの聖体礼儀というのも ありますが、前者はエルサレムの正教会で年に一回だけ行われ、後 者はアレキサンドリアの正教会で年に一回だけ行われるという特別 な聖体礼儀です。

時課と一週間

「時課」について正教会には「時課」と呼ばれる奉神礼があります。「時課」とは もともと一日を八つの時間に分けて祈る習慣から生まれた祈りで す。時間ごとに祈るという形は、使徒時代、初代教会までさかのぼ ることのできる伝統的な奉神礼です。 正教会では、ユダヤ教と同じように、夕方から一日を数えます。 創世記第一章に、「夕となり朝となった」とあるからです。奉神礼 的に言えば、「晩課」と呼ばれる時課から一日が始まります。例えば、 土曜日の夜はすでに日曜日ととらえます。 時課の内容としては、主に聖詠(詩編)を読み、祈祷文を歌った り読んだりする構成となっています。時課には、「時課経」という 祈祷書を基本的に使用します。 時課の種類としては以下の八つがあり、それぞれにテーマをもっ ています。

一週間について

旧約聖書の創世記には、神様が七日間で天地を創造されたことが記されています。こ れを文字通り24時間×7日=168時間ですべてが形成されたと解釈することはありません。 聖書は科学的な、または歴史学的な書で はなく、人間の言葉で書かれた神の言葉です。 七日というのは一週間の単位として古来より現代まで用いられています。 ある意味、人間の生活習慣から生まれた単位ではありますが、それをとおして、 神の偉大なる秩序正しい天地創造の神秘を啓示しているのです。 それを啓示された民であるヘブライ人は、この一週七日を神聖視し、 大切にしました。そしてその伝統を受け継いだキリスト教(正教会) の世界の中で、一週間の周期は一度もずれることなく連綿と続いて います。

「7」という数字は、聖書において、聖なる数または完全を意味 する数として扱われています。また、天地創造の日数であるため、 「7」は「この世」を意味していると正教会は考えます。 そこに「1」がプラスされる(ハリストスの到来)と「8」になります。 「8」は、来世とか天国とか復活を意味するようになります。 ハリストスが復活した日曜日は、数え方によっては「八日目」になります。「7」が「1」 欠けると「6」になります。完全性の欠如は悪であるので、 「6」は悪魔や罪を象徴するようになります。もちろん数字に対する意義 付けであって、数字そのものにそのような神秘の力が潜んでいるの ではありません。

正教会の奉神礼には、「八調」という独特のサイクルがあります。 聖歌のメロディや祈祷文に、第一調から第八調までの種類があって、 一週間ごとに順番に調を変えていきます。第八調までくると次の週 は第一調にもどります。「8」のサイクルは、前述のように「天国」 を意味するサイクルです。

正教会の中で、一週間の各曜日は、それぞれ特別なテーマをもっ ています。特に注目されるのが、土曜日と日曜日で、他の曜日とは 違い、神聖な日、喜びの日、祭の日という性格があります。正教会 では土曜日のことを「スボタ」と言います。これは「安息日」を意 味するヘブライ語「シャバット」に由来しています。「十戒」には「安 息日を覚えて、これを聖とせよ」とありました。正教会にとって聖 なる「スボタ(安息日)」は今でも土曜日です。 しかしユダヤ教の ように「何も労働しない」ということではなく、神の善なる天地創 造、しかし罪によって汚されたこの世、救世主への待望などを記憶 するという精神的な意義付けがなされます。またハリストスが墓の 中に安息した日という意味も「スボタ」はもっています。日曜日は、 正教会では「主日」と言います。つまり「主の日」「主ハリストス の復活した日」という意味です。復活したハリストスは、死んで三 日目すなわち日曜日に顕れました。正教会ではハリストスの復活を 年に一度盛大に祝いますが、毎週日曜日、主日も、小さな復活祭な のです。「主日」は、第八日目であり、天国を先取りし、復活にあ ずかる喜び溢れる日です。 一方、正教会において水曜と金曜は、「斎(ものいみ)」の日で す。「斎」とは一言で言えば「節制」です。生活の面から節制して、 ハリストスの受難と十字架を記憶します。

祭と斎

正教会には、独自の「暦」があります。正教徒にとって、「暦」 は単なる通過儀礼ではありません。私たちは、「暦」によって「時 の成聖」というものを行います。「時の成聖」とは、私たちが生き ているこの「時間」を「聖なるもの」にしていくということです。「時」 というものも、罪によって堕落しています。だから「時」もあがな われなければなりません。神から分離し、無意味に空虚に向かって 過ぎゆく「時」を、神と結びつけ、意味あるものとして充実に向か って進むものにしていくということです。正教会の暦はそのために あります。もし、私たちが教会の暦にそって信仰をもって生きるな ら、私たちの時間は、ハリストスと堅く結び合わされます。

正教会には「復活祭」を中心とした一年の暦があります。主日ご とに基点をもつサイクルとも言えます。「復活祭」の前には「大斎」 と呼ばれる準備の期間があり、またその「大斎」の前に「大斎準備 週」という期間もあります。これらの期間の主日には特別なタイト ルがつけられ、聖書や奉神礼の言葉をとおして、信仰の学びを行う ようになっています。復活祭後から聖神降臨祭という祭の期間を「五 旬節」といい、同じように各主日に特別なテーマがつけられていま す。聖神降臨祭の次の主日から「第1主日」「第2主日」と数えて 行きます(正確には「聖五旬祭後第○○主日」と言う)。復活祭の 日付は毎年かわりますので、主日の数もその年によって多かったり 少なかったりします。

復活祭は、「春分の日の後の満月の後の最初の主日」と決められています。正教会と西方のキリスト教と復活祭の日付が違うことが ありますが、これは春分の日を旧暦新暦どちらで見るかに原因があります。

復活祭は、「祭の中の祭、祝いの中の祝い」と呼ばれるほど卓越した祭ですが、正教会にはその他にも祭がたくさんあります。 毎日、その日に記憶される聖人がいますので、その聖人を祝うことによっていつでも祭とすることができます。 また、聖人だけではなく、聖書の中の出来事や、教会の歴史的な出来事などを記憶する祭もあります。その中でも「十二大祭」と呼ばれる大きな祭があり、正教会で は大切な祭として聖体礼儀を行い、祝いその祭をとおして自分の生活の中に神の恵みを注ぎ入れます。

私祈祷

正教徒は、教会に来た時だけお祈りすればよいのではありません。 普段から、家でもどこでも祈りを神に捧げることが大切です。 しかし、正教徒がプライベートに祈る時にも、 「小祈祷書」と呼ばれる本にそって行うよう勧められています。「小祈祷書」の中の言葉も 教会で公に祈る時に使用する奉神礼書の中から引用され編集されています。 つまり、正教会では、個人と教会は祈りにおいて分離されません。 個人的に一人で家で祈る時も、正教徒は、孤独ではなく教会と共に祈っています。教会でみんなで口をそろえて祈る時も、正 教徒は個としての自分を失いません。

正教徒は、こうした定型の祈祷文(正教会では「祝文」と言う) を読み、そこに自分の心を合わせることによって祈りを神に捧げま す。自分の言葉を全く否定するのではありませんが、自分の言葉に は、自己満足や間違った感情や感覚があり、祈りが無意味になった り空回りしたりする危険をはらんでいます。私たちは洗礼を受けた とたんに正しい祈りをささげることができるようになるのではあり ません。祈りは、成長していくものです。日々の祈り、教会での祈 りを繰り返していくことによって、祈りは身についてきます。祈りというのは単に神様に何かお願いごとをする、ということで はありません。神さまに感謝すること、神様を讃美することが最も 大切な祈りの心です。そして次に大切なのは自分の罪を痛悔するこ と、すなわち悔い改めの心をもって罪の赦しを願うことです。 神に何か願いごとをする懇願の祈りも、その内容は自ら整理されるでしょう。 私たちは何を神に願えばよいのかを、祈祷書の葉が教えくれますもちろん舌先け動か昏して心が空になっていては何にもなりません。 正教会では、言葉だけでなく、十字をかくとか伏拝するとか、ロウソクを持つとか、イコンを見つめるなどの行為を伴う祈りをしますが、 それらをとおして心からの祈りをもつことが肝心です。

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