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フモール修道院

フモール修道院はスチャヴァ県ゲラ・フモルルイ町から7キロ南に所在している。パフモールの口」という意味の町の名は、フモール川がモルドヴァ川に流れ込む盆地に由来している。英語などの[humor](機嫌)とあまり関係ないが、この辺の天候がいくらか気まぐれなことがあるかもしれない。修道院は山麓にあって、周辺の大自然が非常にきれいである。

この修道院は、14世紀初頭から建っていた修道院の跡地に、1530年に建設された。当時の領主ペトル・ラレシュの最高議長テオードル・ブブヨグが建立者となっている。修道院は、北モルドヴァ地方がオーストリア・ハンガリーニ重帝国の支配下に入る少し前まで250年余り活動し続けた。 1786年に修道院として廃されたが、20世紀になって共産主義が終わってから、1991年に修道活動を再開して、小規模ながら尼僧院として活動を続けている。近辺の住民は町のすぐ近くの丘にある別の教会を利用しているため、さほど混雑することはない。

この建物もアルボレ修道院と同様、他の修道院と比べると小ぶりで、尖塔をもっていない。しかし平面はこの地方に一般的な、伝統の三先端平面である。鐘楼が増築されたのは1641年。修道院の周囲には石でつくられた塁壁と木製の柵がめぐらされている。(ほかの修道院の多くが立派な城壁を構えていたのとは対照的である)。

教会の三面にはかなり大きな張り出し屋根がつけられている。
フモール修道院の張り出し屋根は上から紐で吊るされているかのように優美な曲線を見せるが、この種の屋根はモルドヴィツァ修道院など、この地方で一般的な形式で、現代の建築家からもビザンツ芸術の傑作と絶賛されている。教会の西側正面では張り出し屋根の一部が回廊で支えられ、外拝廊となっている。おそらくフモール修道院はアーケードの外拝廊をもつ建築として、ブコヴィナ地方につくられた最初の作例であろう。窓枠はゴシック様式。

ブコヴィナ地方に残る彩画修道院の中で、ヴオロネツが最も保存状態がいいものだとすれば、フモールはごく初期に建造されたものの一つとして現存する貴重な例である。フレスコ画が描がれだのは1535年で、当時最も有名な画家だったスチャヴァのトーマ(モルドヴィツァ修道院の画家と同じ)が手がけた。

フモール修道院の壁画の基調となる色は、東洋産のアカネから色素を取った赤褐色である。そこに青や緑などを用いた図像を載せることで、壁画が完成されている。  外壁には、ヴオロネツ修道院と同様の図柄で描かれた「最後の審判」や「エッサイの木」などの壁画があるが、かなり浸食が進んでいる。重要な相違点は、フモール修道院では悪魔が売春婦として表現されているという点である。当時の農夫たちは、地獄のほら穴を支えるのは悪魔よりも邪悪な心をもった7人の老女であると信じていたので、このような女性嫌悪を示す図像が残されたのだろう。そして悪魔は、これら地獄の老女が欠員となった際に補充するため、たえず世界を捜しまわっているとも信じられ、人々から恐れられていた。

「最後の審判」め場面をあらわす壁画において悪魔が天秤を引き寄せようとする姿や、罪人を川に突き落とそうとする姿などがこっけいな光景を編みこんでいる。
その他の外壁の壁画では、「コンスタンティノープルの包囲」と、それにちなんだ「聖母への賛美歌」が有名である。これはモルドヴァ地方のほかの修道院にも見られ、その歴史的な由来は遠く昔の出来事で、626年にコンスタンティノープルがペルシア人に包囲されたことにある。当時は、ローマ西方帝国が移住民族の手に落ち、コンスタンティノープルがキリスト教の最強の要塞であったが、それが626年にペルシア軍によって追い込まれた。 しかし、当時の総主教セルゲイが住民を励ましあきらめさせなかったことによって、コンスタンティノープルが見事に篭城から脱出することができた。総主教セルゲイは街が植われだのが聖母マリアのおかげと見て、24の詩を捧げた。これらの詩はモルドヴァの多くの教会堂の壁画で描かれており、コンスタンティノープルの包囲を画いた壁画もほぼ遍在している。このフモール修道院でも出てくるが、626年の攻撃者がペルシア人だったはずが、この壁画では、服装や武器などがトルコ人に置き換わっているのがおもしろい(もちろんこれはモルドヴァ地方のほかの教会堂と同じである)。実質1453年、トルコ軍がコンスタンティノープルを征服してしまったが、これらの壁画においてさらに800年ほど前の場面をうまく使い、トルコ軍が負ける場面を何とか練りこむことができた。見ている教徒の精神的な励ましと、支配者への敬愛をアピールする効果があっただろう。

拝廊には創達者の領主ペトル・ラレシュとその妻アナスタシーアの墓があって、領主の一家を描いた天井画がある。建造者のテオードル・ブブョグもまた、妻と共にここに埋葬されている。
この修道院に対して1868年、1888年と、1960~61年、1967~70年、1971~72年に壁画を含む修復作業が行われている。

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