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遥かなるルーマニア 豊かなる音楽土壌

CAMPANELLA 2002年10月号

 1902年。日本ろルーマニア間で最初の外交関係樹立への協議がオーストリアで行われた。今年は両国交流百周年の記念の年。偉大な音楽家も数多く生み出している豊穣なる地、ルーマニアへのたびにいざ。

 知っているようで知られていないルーマニアという国。今もなお、独特の音楽が地に息づき受け継がれ守られている「聖地」その歴史は振りかえると長く険しく、しかし豊かに彩られている。
 ルーマニアと聞いて、何を連想するだろうか。体操のコマネチか、独裁政権で知られたチャウシェスクか、あるいはさかのぼってドラキユラ伯爵か。確かに、それでも間違いではない。だがそれだけで終わってしまうのは、あたかも、日本と聞いて富七山、芸者、桜を連想して満足してしまうようなものだ。
二心うまでもないことだが、ルーマニアにはもっと豊かで彩り豊かな歴史があり、その歴史から牛まれてきた文化があるのだ。

波乱に富んだ歴史

 ルーマニアの歴史は、占くはローマ帝国時代から始まる。そのことは、<ルーマニア(Romania)>という国名からも察しがつくだろう。またそこが、ほかの中欧・東欧諸国とルーマニアとの違いでもある。つまりルーマニアは、中欧・東欧の各国の中で唯二ラテンの血を引く国なのだ。それを証し立てするかのように、ルーマニア語はイタリア語と似ており、人々も、どこか大らか、いわゆる〈ラテン系〉の逞しさを感じさせる。
 もっとも、〈ルーマニア〉という国名に落ち着くまでには、この国は長い変遷を経なければならなかった。ローマ帝国をはじめとして、ゴート族、フン族、ブルガール族、スラヴ民族、マジャール民族:・といった近隣の民族が、入れかわり立ちかわり、肥沃な土地を有するこの国上を目かけて侵略をしかけてきたのだ。ちなみにそのころはまだ、ヴァラキア王国とモルドヴァエ国に分かれていた。このふたつの王国が合併してひとつの国となったころには、今度はオスマン・トルコの侵略が始まる。トルコの戦がロシアに変わり、やっとのことで〈ルーマニア王国〉が牛まれたのは、1881年のことだった。そこにさらにトランシルヴァニアが加わり、ようやく領上は安定するが、国名のほうはその後も〈ルーマニア人民共和国〉〈ルーマニア社会主義共和国〉そして現在の〈ルーマニア〉へと変わりつづけた。

地に根付く多くの民謡

 こうしてさまざまな変化を遂げたルーマニアだが、民衆はその歴史の中を懸命に牛き延びた。彼らの心のよりどころになったもののひとつが九日楽であったことは、想像に難くない。そのことを証明するもののひとつが、〈ラウタール(あるいは複数形でラウターリ)〉と呼ばれる楽十たちの存在だ。姿かたちとしては、中世の物語に現れる吟遊詩人をイメージするといいかもしれない。吟遊詩人は往々にしてリュートとともに描かれるが、ラウタールたちも〈コブザ〉と呼ばれるリュートを主な楽器とし、村から村へ、町から町へ、民謡を歌って歩き、行く先々で人々の歓迎を受けた。彼らはおおむねプロフェョショナルかセミプロで、その中からは数多くのスター的なラウタールが生まれてきた。その伝統は、戦火をくぐり抜け、スタイルを変えながら、こんにちまで受け継がれている。
 そしてこのラウタールたちによって、民謡は広く浸透し、各地で活発に歌われることになった,代表的な民謡をいくつか挙げてみよう。たとえば、〈ホラ〉、目本でも『ホラ・スタョカート』などでおなじみの、あの〈ホラ〉だ。活気に満ちた踊りのふしで、祭や祝いの場には欠かせない、同じく舞曲には、〈スルバ〉〈ブルーウ〉ほかがある バ幻しみじみと哀感のこもる調べとしては、細かくせつせつと歌われる〈ドイナ〉や、良歌〈ボチェト〉が行乞だ、楽器も多挿多様だが、民族楽器として目本でいちばん知られてぃるのはおそらく〈ナイ(バンフルート)だろう 吊の仲間は他にも多く、〈ティリンカ〉や〈カヴァル(長ぃ縦笛)〉〈フルイエル(短い縦笛)〉のようにルーマニア固有のものから、〈チンボーイ(バグパイプ)〉や〈ブチュムテルブホルン〉〉など外国から入ってきたものまでいろいろある。先に挙げたラウタールたち愛用の〈コブザ〉、バチで叩く鍵盤楽器〈ツァンバル〉も、きわめて大切な楽器だ。ヴァイオリン、アコしディオン、クラリネットといった楽器もなくてはならないものだが、ことにヴァイオリンは、ルーマニアに今も多く暮らすロマ(ジブシー)たちによっても、独特の名声をりえられている。

ルーマニアのクラシック音楽

 これらの民謡は、やがてルーマニアに芽生えたクラショク九日楽にも大きな影響を与えずにはおかなかった。当初ルーマニアの芸術音楽は、どちらかとぃえば、ルーマニア正教をいただく教会を中心として発達していた知立への気運が最高潮に達する19世紀、変化は一気に訪れる。ヨーロッパ諸国に広まりつつあった〈国民楽派〉の流れが、ついにルーマニアまで到達したのだ アントン・バン、ジコルジェ・ステファネスク、エドゥアルド・カウデラ、コンスタンティン・ディミトレスクといった作曲家たちが、いちどきに精力的な活動を始めた 《望郷のバラード(原題は《ビアノとヴァイオリンのためのバラーグ(バラード)》)》で知られるチプリアン・ポルムベスクも、民族九日楽の収集家であった父イラクリエの影響もあってか、ウィーンではブルョクナーらに学ぶなどしだものの、最終的には故郷ルーマニアに帰り、民族的な作品を多く書いている。ポーランド人ではあるがルーマニアに縁の深かった、カロル・ミクリのような人もいた。こうした一連の流れは、奇しくもルーマニア五国と同じ年に生を享けたジョルジェ・エネスク(まかばジョルジュ・干不スコ)によって、ひとつの集大成をみる、ヴァイオリンの神童として注目を集めたエネスクは、若くしてバリ音楽院に留学。やがて沈練された中にルーマニア邑を巧みに織りまぜた作目皿を発表するに及んで、ルーマニアを代表する作曲家としての地位を確立しだ。《ルーマニア狂詩曲》《ルーマニアの詩》や、ヴァイオリンソナタが特に名高い。ルーマニアに戻ってからは、作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者として大いに活躍した。20世紀に入ってからも、このクラシック八日楽の伝統は、ピアニストのディヌ・リバッティやクララ・ハスキル、指揮者のセルジュ・チェリビダッケらによって受け継がれることとなった。

 このように形を変えつつ就いてきたルーマニア音楽の伝統は、今も生きている。ルーマニアは昔から合唱の文化でも化でも知られるが、時として地声をも牛かしたその歌声のように、ふくよかで健やかな精神がそこには息づいている、ルーマニアの村を訪ねると、驚くほど温かな心に出会うことがある。そうした心や音楽は、どれほど歴史の試練にさらされても変わらないものがあることを、教えてくれているかのようだ。

ジョルジェ・エネスク  ~二つの祖国を持った波乱の生涯~ルーマニアに生まれ、パリで死したエネスク。偉大なる作曲家でありヴァイオリニストでもあった彼の生涯を知る時、動乱の時代を経てきたルーマニアという国も浮かび上がる。彼の足跡を自身の言葉と共に辿る。

ジョルジエ・エネスク(ルーマニア以外の国々では、.般的にフランス在住時代のジョルジュ・エネスクで知られる。従って以後、ジョルジュ・エネスクと記載)は1881年、ルーマニアのモルドーヴァ地方ドルホイ県リベニ村というところで牛まれている。このりべ二村は現在ジョルジエ・エネスクと呼ばれているらしい。
 亡くなったのはバリ。1955年のことだ。最近は彼の作曲家としての作品が世界的に取り上げるられる機会も多く、ヴァィオリニスト、指揮者としてのエネスコ同様、作曲家としても知られるようになった。日本でもようやく彼の作品と住いに、エネスクの名がプログラムなどで見かけられるようになってきている。しかし、彼のプロフィール、人となりをどれだけの人が知るだろう。そこで彼の著作「エネスク回想録」(白水仕1977年刊 現在品切れ)に沿って、彼の音楽家としての生い立ちや人となりを追っていくことにしたい。
 なお、この『回想録』は1951年、フランス国営放送の番組として20回にわたり放送された『ジョルジュ・エネスクとの対談』という番組の原稿をもとに編集し、1955年に刊行されたもの。 彼が高潔な人格者であったことや、その力や富を決して誇示しない謙虚な人であったことが回想録から読み取れるが、晩年脊椎カリエスを病み、半身不随になったことや、1944年赤軍の解故によりルーマニァが社会主義社会となった国際情勢の変化によって、音楽家としての彼の活動範囲も狭まれただろうことなど、回想録には触れていない事柄も多い。不平や恨み言を決して口にしない、人格者としてのエネスクがそれを書くことを拒んだのか、あるいは他の理由からか。ルーマニアに生まれ、パリで亡くなった彼の、特に国際情勢の変化による彼の生活の変化についてなど、何故あまり触れようとしなかったのか、興味深いところである。

【幼年時代】

 1881年8月19日、ルーマニア人の両親のもとに牛まれた子不スコは、3歳の時に、クラカリア村に移る。「私の牛まれた故郷ほど自然の変化に富んだところはありません」そのくらい素晴らしい環境で彼は育った。
 父親は正教会の司祭を父にもつ農場主。小作人たちにも優しい慈悲深い人格者だったという。母親は「まさにママンだったと言いたくなるような優しい女性だった」とある。
 そんな両親から彼は「過度に、息がつまるほど、可愛いがられた」。というのは、彼は8番目の子供だったが、上の7人の兄姉は幼くして病気などで、皆亡くなっており、エネスクは「両親が神に哀願して」授かった子供だったのだ。そのためあらゆる危険から彼は遠ざけられ、「窒息するような暑い温室のなかで、私は早熟な成長を遂げた」。「感性過敏の説明は幼年時代に求めなくてはならない」と自ら認めるほど、彼の芸術家としての温床は幼年時代にあったと言っていいだろうまた、「クラカリア村のほとんどの農夫が父の所有する耕地で働いた」とあるのをみると、彼はかなり裕福な家庭に育っただろうことがわかる。

【音楽への目覚め】

 「ジプシーの混合芸術と、極度に洗練されかつ信じられないほどの豊かさをもったルーマニアの民俗音楽とのあいだには、共通する特徴は何もないのです」。そう記すエネスコだが、音楽の初体験は、偶然近くの温泉場で演奏されたジプシーの音楽だった。3歳の時である。翌朝から木片に縫糸を張って、ヴァイオリンを弾く真似をしたという。本物のヴァイオリンを欲しがり駄々をこね、買ってもらうや否や才能を示し、父親を驚嘆させた。「おまえは音楽家になるんだ」。エネスコ4歳、こうして彼の音楽家への道が開かれる。
 彼は記す。「子供は小さいから夢も小さいと人々は思っている。とんでもない誤解だ」。その証として表紙に「『ルーマニアの大地』、ピアノとヴァイオリンのためのオペラ、ルーマニアの作曲家ジョルジュ・エネスク5歳」と書かれたオペラの原譜を、示す。作曲家としての子不スコが、既に存在していたのだ。
 村には音楽教帥がおらず、ルーマニアの古都ヤーシの作曲家コ七ァラに習っていたが、両親は彼の「この子の天分を伸ばすべきだ、ウィーンにやりなさい」という言葉に従う。

【ウィーン】

 1888年、母と共にウィーンにやってきたエネスコ7歳。「生家が遠ざかっていくのを見つめながら、自分の幼年時代に永久の別れを告げるのは辛いことだった」と述懐する。
 この言葉はパリで死を迎えた彼にとって暗示的だ。この年から94年までウィーン学友協会音楽院で学ぶことになる。
 校長ヨーゼフ・ヘルメスベルガー 一世にヴァイオリンを習う。ベートーヴェンの思い出を聞かせてもらい、ベートーヴェンは彼の幻影となり、「一緒に暮していた」。さらにオーケストラの一員としてブラームスに手ほどきを受けたエネスクは、彼の優しい人柄に触れ、母国を思い出させる彼の音楽を熱愛するようになる。そしてワーグナーに傾倒。「10歳の時から、ヴァーグナー式r片陰が私の血管組織の一部となってしまった」というくらいにである。ロベルト・フョクスに和声を、校長の息子ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2既に宇内楽を習い、夢中になった。9歳の時にはヴァイオリンの最上級のクラスに入る。

【パリ】

 そんな彼の両親に、ヘルメスベルガー2世はパリ行きを勧める。「マスネを知っていますから、息子さんに彼を紹介しましょう」と。
 1895年に入学したパリのコンセルヴァトワールでは、「優れた作曲家であり素晴らしい教師」ジェダルジュに対位法、「熱狂的な人物」マスネと「人に霊感を与える力とその伝播力のあった」フォーレに作曲を学ぶ。特にフォーレに学ぶ者は、デュカス、ラヴェルら、皆がフォーレを尊敬していたという。学友であり、4歳年上のコルトーは親友だ。
 98年エネスク作曲の《ルーマニア詩曲》がコンセール・コロンヌ指揮で演奏され、「相当の成功を収める」。さらに彼は記す。「私の先生や審査員がこの成功に嫉妬していたのは確かであった」。この「嫉妬」はエネスコの音楽家としての道にいつも影を落としていたように思えるのだが、どうだろうか。
 99年、師であるサン=サーンスの《コンツェルトロ短調》を弾き、ヴァイオリンーコンクール第一位となり、「ティボーが私のライバルとなった」。これは彼特有のユーモア。彼はティボーを「正真正銘の鶯」と賞賛する。そしてイザイをも。

【苦難の時代】

 「私個人にとっては、かつて殉教者たちが昧わったと同じ苦難にさらされた人間こそ、作曲家の姿だと申し上げたい」。
 エネスクは作曲家と演奏家(さらに指揮者も)という二足のわらじをはくことになるが、彼は『回想録』で「作曲することしか考えていなかった」と繰り返す。

 にもかかわらず、ヴァイオリニストとしても活動したのは生活の安定のためだったようだ。そんな彼は「作曲家連中からは、あれはヴァイオリニストだと言われ、巨匠と呼ばれる演奏家からは、作曲家だと言われる」。 この作曲家と演奏家とのあいだの激しい「葛藤」は、ルーマニアとフランスとの二つの祖国への「分裂した愛国心」ともだぶる。

 さらに「あれは一夜の花火だと断言する人もいた」とも書く。この矢を射ったのは他ならぬ「《ルーマニア詩曲》たった」。彼は少年時代の思い出から幾つかの情景を取り上げ、「様式化して」、この組曲の一連の主題として表現した。懐かしい祖国のイメージを蘇らせるために。そんな彼はどんな思いでこの「矢」を受け止めていたのだろう。

 その後《田園幻想曲》《ヴァイオリン第1ソナタ》と作曲し、《第2ソナタ》《弦楽ハ直奏曲》を作曲する頃には「自分が作曲家として急速に進歩していくのがわかった。自分というものが理解できるようになった」とする。「以前のように、批評家連中の悪口に傷つくこともなくなった」と。そして「わかりやすい作品が人々から熱狂的に受け入れられるのは、その作品が駄作であるから。難解な作品が酷評されるのは、将来傑作として評価を受けることを証明する」とも語るのだ。

 「1901年から2年にかけて作った2曲の《ルーマニア狂詩曲》は触れずにおく。私の作品の中で人々から最も愛された作品だから」と。

 この言葉は、彼の他の作品との対比をも意味するようで、象徴的だ。この作品への「通俗的な」人気は、彼の才能を誤解させているようにも思えるからだ。
 1902年、ドビュソンーの『ペレアスとメリザンド』をラヴェルと聴く。その頃の彼は、自らを「抒情趣味のワーグナー信奉者」で「骨の髄まで作曲家」と考え、ヴァイオリンに呟く。「わが友よ、お前はとても綺麗で可愛い、だが、この私にはあまりに小さ過ぎる!」

【二つの大戦】

 第一次大戦勃発時、彼はルーマニアにいた。その前後の「ルーマニアの苦悩を詳しくお話しするのは、私には荷が重過ぎる」としながら、第一次大戦を経て、第二次大戦でドイツ側につき、最終的にはソ連の支配下に置かれたことなどを挙げる。そしてそのルーマニアを去ったことを。「ルーマニァでの隠遁生活の夢に永遠の別れを告げました」。
 その後の、ルーマニアに起こる歴史的出来事は周知のとおりだが、彼の当時の苦労や思いはあまりここでは語られていない。

 ただ、彼の妻となるカンタキュゼーヌ王女が第一次大戦で従軍看護婦として働いた事実をサン・トレール伯爵の『回想録』から引用する。「最も贅沢な生活に慣れておられたお方なのに、日曜日とて休むことなく、伝染病を恐れず・・・ 病院では看護婦の模範になられていた」。この王女との結婚の経緯も語られていないが、当時のルーマニアで、王女との結婚はどのようなものだったのだろう。「ひとりの羊飼いが王女と結婚しようものなら、人々は非難し、羊飼いにむかってえせ貴族と叫ぶだろう」とは、この『回想録』の編集者の序文にある文章だ。スキャンダルであったろうことが想像できる。

 彼に代わってルーマニアの歴史を補足するなら、奇しくも子不スコが生まれた81年、カロル大公がルーマニア王国を宣言、力口ルー世として即位。1914年勃発の第一次大戦では領土を拡大、19年パリ講和条約によりトランシルヴァニアを獲得。38年国王カロル2世は王制ファシスト独裁制を敷き、親ナチス色に。第二次大戦ではドイツ側につく。敗戦後ソ連軍がブカレストに人城し、共産党が閣僚ポストを独。44年軍事ファシスト政権が倒れ、47年王制を廃止し、人民共和国を宣言。社会主義への道をとったのである。

 エネスクは王族の庇護を受け、王妃とも結婚した。社会主義は思想的にも相容れず、パリをずっと生活の拠点にしたのも、こういった事情からだろう。その後のチャウシェスク政権を予期していたかのように。当時のルーマニアの人々も、大変な有名人であったエネスコを偉大な音楽家として認めながらも、複雑な思いで彼をみていたに達いない。しかし、エネスコは生涯ルーマニアの市民権を捨てることはなかったのである。彼ほど血肉を二分されて苦悩したひとも稀ではなかったか。

【オイディプス】

 演奏という重荷を背負いながら、作曲に心血を注いだエネスコであるが、彼が「最も大切な仕事」とするのが歌劇《オイディプス》だ。完成に10年(1921~31)を費やし、この作品の中に「ヲークフリート』の亡霊と『ペレアス』の優美な幽霊を突然見た」と記す。オイディプスに自らと重ねてみていた部分もあったことだろう。この作品が完成するまでを嬉々として、丸々一章を使い、述懐するエネスクに、歌劇制作への情熱が窺える。謙虚なエネスクには珍しく、この作品に対し、レジオン・ドヌール三等章が贈られたことが記されている。よほど嬉しかったのだろう。現在、上演の機会が少ないのは残念なことだ。 思い出を綴ったこの『回想録』では音楽家との細やかな交友も書かれているが、一貫して音楽への真摯な態度が貫かれ、謙虚で、ほとんど私生活を覗かせない。数々の名誉や要職を得ながら、それも語らない。晩年のルーマニアヘの思いも。二つの祖国を持ち、当時のルーマニアの状況、そして彼の音楽への思いを考えると、「書かない」ことで椎し量れることのなんと多いことか。 「メキシコ女優ルーペーヴェレスが映画女優に未来の夫として誰がいいか投票させ、この私が最良の夫として指名されたあの時代はどこへいったのか。当時の私は美男子だった」と、花香る季節が過ぎ去ったことを嘆いてみせるエネスク。なんとスマートなことか。この機会にエネスコにもっとたくさんの光が当てられ、彼の作品が今以上に収り上げられることを願うばかりだ。

ルーマニアが生んだ偉大な音楽家たち

ヨーロッパの南部、ドナウの河口に位置するルーマニアは、東欧の例に漏れず戦禍に遭い他国の支配下の置かれた。スラヴ系の多い東欧諸国の中で、ラテン系の民族を中心に栄える。またアジア系のハンガリーと隣接することで文化も独自の融合を果たす。西欧音楽の風と汎欧州的な要素を併せ持つ風土からは、エネスコをはじめ、多くの芸術家が生まれた。今に残る代表的な3人について紹介したい。

ディヌ・リパッティ

夭逝した天才が残したわずかな録音しかし今なお語り継がれる不世出のピアニスト
1917年・ブカレスト生 ~ 1950年・ジュネーブ没

 ルーマニアが生んだ偉大なピアニストの一人、ディヌ・リパッテも病弱で、若い頃から多くの人々に愛され、音楽の溢れんばかりの才を持ち、多くの好意と医療を提供されたにも関わらず33歳で夭折した。
 リパッティは裕福なアマチュアヴァイオリニストの父とピアニストの母の間に生まれた。ジョルジョ・エネスコが彼の代父(洗礼名を与える父)であり、幼い頃から音楽的には恵まれた環境で育つ。1933年、ウィーンのピアノコンクールで競り合いの末2位になるが、その審査を不服としてコルトーは審査員を辞任し、パリ音楽院ヘリパファィを招聘する。ピアノをコルトーに、指揮法をシャルル・ミュンシュに、作曲をポール・デュカスに学んだ。デュカスの死後、ナデキュア・ブーランジェに師事ずるが、彼女は生涯にわたりリパョティに影響を与え続け、最初の録音も勧めた翌日楽上の母」というような存在だ。 ベルリンとイタリアの諸都市で演奏活動を開始したが大戦が勃発しルーマニアヘ帰国。43年に婚約者、マドレーヌとともに奇跡の国外脱出を図りスイスのジュネーブに居を構える。所持金もわずかだったが音楽の仲間たちが彼を助け、支えた。
 しかし病魔はすでに彼の体内に巣くっており、演奏旅行がキャンセルされることもあった。健康上の理由と、音楽に対する謙虚、完全主義によって彼の録音は決して多くはないが、その一つ一つは驚くべき完成度に達している。ほとんどの録音をシュヴァルツコアプの夫であり、自身フィルハーモニア管弦楽団やコヴェント・ガーデン王立歌劇場の芸術監督などを務めたウォルター・レョグが監修している。

セルジュ・チェリビダッケ オーケストラの響きを構築していくわがマエストロ、チェリビダッケ
1912年・ロマン生 ~ 1996年・ヌヴィーユ・シュール・エソンヌ没

 凄まじいほどの完成度でオーケストラを統率したといわれるチェリビダョケの演奏は、今も多くのCDで聴くことができる。ただ録音された音を「音楽とは別のもの」と常々言っていた録音嫌いで、現在発売されているものは、「その音楽の雰囲気が1%でも伝わるように多くの人たちの熱望を得て」遺族が同意したものがほとんどだ。
 ベルリン音楽大学在学中の45年、事故死したボルヒャルトの代役としてベルリン・フィルハーモニーを指揮し成功を収めた。その功績でのちにベルリン・フィルハーモニーの首席指揮者を務め戦後の再建に努力した。54年にベルリンを去り、以来10年ほど各国で指揮をするが、63年からスウェーデン国立放送交響楽団とデンマーク放送交響楽団などを指揮。76年にはドイツヘ戻り、シュトゥョトガルトの南ドイツ放送交響楽団やミュンヘン・フィルハーモニーの指揮者を務め多くの功績を残した。
 完璧主義者として知られ、その演奏や音楽の解釈は哲学的ともいえるほど透徹されているといわれる。1回の演奏会でも徹底して練習を要求するためリハーサル期間が1週間以上に及ぶことすらあったという。しかしその一方で、団員の待遇改善や人員の増員要求など厳しいだけでない一面も知られている。後進への講習会などもよく行ない、後進に音楽の体験についての考えを伝えようと努力をしていたという。
 「大切なことは何年経っても、それこそ何度も語りましたが、同じ冗談は二度言わないなどのエンターテインメントなところもありました」とはチェリビダョケの下でアシスタントを務めていたこともある指揮者の言だ。若手の質問などにも丁寧に、しつこいくらい凡帳面に答えたという。
 神経質さと完璧主義、そして温かさの同居するチェリビダョケの音楽は今でも多くのファンの心をつかむ。確実に20世紀のマエストロの一人であろう。

クララ・ハスキル ニ度の闘病に負けず生き抜いた20世紀最高のピアニストの一人至高のモーツァルトに“神の声"を聴く
1895年・ブカレスト生 ~ 1960年・ブリュッセル没

 ルーマニアを代表する芸術家としてまず名前が上げられるだろうクララ・パスキルは、最高のモーツァルト弾きの一人として知られる。残された録音で彼女の演奏を聴くと、精神性の高さと神への啓示ともいうべき感受性に心打たれる。高い芸術性と堅実な構築性は、多くの天才といわれたピアニスト同様、瑞々しい輝きを持っている。 クララ・ハスキルは1895年、ブカレストにユダヤ系の両親の許に生まれた。幼い頃から鋭敏な聴覚と音楽的才を発揮した。父親の死でウィーンの叔父に引き取られると、ゼルキンやジョージ・セルの師であったリビャルト・ロベルトに師事し本格的な音楽のキャリアをスタートする。8歳でデビューし14歳でパリ音楽院に入学を許され、当時学院長を務めていたガブリエル・フォーレに感銘を与えた。
 恵まれた才と鋭敏な感性を持ったハスキルだが、健康には恵まれなかった。脊髄側わん症での4年間の闘病生活。
 復帰して後、パブロ・カザルスの室内楽のパートナーとなったハスキルは、ジョルジュ・エネスコやユージェヌ・イザイらとも共演しその内面的完成度をさらに高めていき、室内楽の分野でも高い評価を得るようになっていった。さらにアルテール・グリュミオーとのデュオで世界的名声を得る。
 再度の苦難が彼女を襲う。ひどい頭痛と視力の低下が脳腫瘍によるものとわかり、戦時下のパリで難しい手術を受ける。戦後スイスに拠点を移したバスキルは、これまでの苦難を陵駕するように、国際的な音楽活動を展開。恵まれた音楽活動を統けたのは晩年の10年間であった。
 60年、心臓発作で急死。

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