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▲トップへ第三章 正教会の教え
聖伝

正教会の教えの源泉は神の啓示にあります。「啓示」とは神様が、ご自身を私たちに教えるということです。とは言っても、神様の奥深い本質そのものは私たちには把握できません。だから、深淵なる神のすべてが明らかになったわけではありません。ただ神は人が理解できる範囲でその聖なる性質と意思をお示しになったのです。神様は最初、旧約という時代にご自分を啓示し、人々にその啓示を伝えさせました。そして自らが人間となって自己を啓示されました。すなわちイイスス・ハリストスは、神の啓示そのものです。
イイスス・ハリストスが使徒たちに与えた信仰や教えを、正教会は、次の世代から次の世代へと連綿と受け継いできました。この「受け継ぎ」を、教会の聖なる伝統という意味で「聖伝」と言います。「聖伝」を伝えていく中でも、神の導きがあります。「神・聖神゜」があらゆる真理に導いてくれるのです。この聖神による導きが、正教会の「聖伝」の基礎です。「聖伝」とは、形や言葉を機械的に保存することではなく、いつでもどこでも聖神の臨在によって神の啓示を教え伝えるということです。つまり「聖伝」は生きたものです。だから私たちは「聖伝」の中で生きる必要があります。「聖伝」の中で生きた生活をすることによって、正教会の教えが理解できます。正教会の信徒とは、「聖伝」を生きる者と言えます。たとえイコンや聖歌や聖師父を研究したとしても、その人が正教会の聖伝の中で生きていなければそれは正教会のものではありません。
正教会とは、「聖伝」そのものです。正教会の教えが人の勝手な解釈による教えではなく神の教えであることの根拠が「聖伝」にあります。聖書という神の啓示の書は、「聖伝」の中にあります。聖書は「聖伝」の一部です。「聖伝」を、聖書に書かれていないその他の記録や伝承と見なしてはいけません。聖書と「聖伝」という二本の柱があるのではなく、「聖伝」という一本の柱の中に聖書は含まれているのです。聖書は「聖伝」から生み出されたものです。これとこれが聖書である、と決めたのは「聖伝」です。いくつもの文書の中から聖書と認めた教会です。聖書が先にあって教会が生まれたのではありません。しかしその聖書は、「聖伝」の中で最も重要であり、最も大きい位置付けがなされます。「聖伝」が生み出した聖書は、その後の「聖伝」を基礎づけるものとなりました。つまり、ある教えや考えが「聖伝」として正しいか否かは、聖書という規準に基づいて、聖神の導きによって、合議の上、判断されます。
聖書
聖書は、神の啓示の書です。神が人にご自分を啓示した教えが綴られています。だからといって、聖書がある日、突然、天から降ってきたのではありません。実際には三千年以上も前から、様々な人々によって書かれた文書です。もちろん彼等は神の口述を機械的に筆氾したのでもありません。
神の恵みは人の自由な行動に働きかけます。つまり聖書には神の導きがあると正教会は信じています。聖書とは人間の言葉で表現された神の言葉です。しかし、聖書を「万能の書」と思ってはいけません。聖書を読めばずべてがわかるのではありません。聖書がすべてであるとか、聖書すべてを文字通り信じないと救われないなどという態度は受け人はられません。聖書は「信仰の書」です。私たちがどう神を信仰すべきかが書かれています。しかし、その内容としては、人が神に対していかに不信仰を繰り返しているかが語られています。
聖書は、二つの「約束」の書に分けられます。その「約束」とは呻様による救いの約束です。一つは「旧約聖書」、もう一つは「新勺聖書」です。旧約聖書は、イイスス・ハリストスの前の時代のとが書かれている聖書です。主にイスラエルという民族の歴史が記されていますが、それをとおして神と人との関係が本来どのようなものであるべきかが啓示されています。旧約聖書に明らかにされた神の啓示は私たちの信仰を基礎づけます。例えば、神が天地創造されたことは、旧約聖書から教えられる啓示です。しかし、「旧約」はその名のとおり「新約」との対比で見られるべきもので、決して単独で扱うべきものではありません。言い換えるなら、旧約聖書はイイスス・ハリストスによって成就された書物と見る必要があります。旧約聖書には時に厳しすぎる神の処置とも思える記述があり、私たちを困惑させます。しかし、それらは新約時代の今としては精神的な意味に解釈されます。旧約聖書に書かれているすべては、イイスス・ハリストスを指し示しています。ハリストスの光によって旧約を読むことが肝心です。
旧約聖書は、もともとヘブライ語で書かれましたが、紀元前2世紀頃にギリシャ語に翻訳され、それが初代教会の人々によって用いられ、キリスト教(正教会)の旧約聖書の底本になりました。このギリシャ語訳の旧約聖書のことを「70人訳」とか「セプトゥアギンタ」などと言います。「72人で翻訳した」という伝説があるからです(端数の2が切り捨てられる)。「70人訳」を写本して保存してきたのは正教会です。一方、ヘブライ語の聖書は、ユダヤ教において写本され保存されてきました。ヘブライ語の聖書のことは「マソラ本文」と呼ばれます(「マソラ」とはヘブライ語で「伝統」を意味する)。「70人訳」と「マソラ本文」では文書の数も順序も違うので注意が必要です。「70人訳」にあるが「マソラ本文」にはない文書を、プロテスタントでは「アポクリファ(外典)」と呼び、聖書には属させていませんが、正教会ではこれらも正式な聖書として認めています。旧約聖書は、律法、歴史、知恵、預言という四種類に分けられる文書で構成されています。新約聖書は、イイスス・ハリストスが来られた後のことが書かれています。旧約聖書と同じように、福音書、歴史、手紙、黙示という四つの種類の文書で構成されています。その中でも最も重要なのが「福音書」です。
福音書を書いたマトフェイ、マルコ、ルカ、イオアンは、「福音記者(エヴァングリスト)」と呼ばれます。「エヴァングリオン」というギリシャ語は、「幸福なる音信」「喜ばしき知らせ」という意味です。福音書には、イイスス・ハリストスご自身のことが克明に記されています。ハリストスという救いの喜ばしい知らせを、福音書は私たちに伝えています。正教会では「福音書」を一冊にまとめて本にし、「福音経」と呼んで大切にします。「福音経」は聖堂の奥にある「宝座」と呼ばれるテーブルの真ん中に安置されています。いわば教会の心臓部分に「福音」があります。
ルカによって書かれた「使徒行実」には、初代教会の歴史の一部が記述されています。それから聖使徒パウェルによって書かれた14の手紙があり、他の使徒たちによる手紙も新約聖書の中に含まれています。これらは特に教訓と信仰の励ましに満ちた言葉が綴られています。正教会では「使徒行実」とこれらの手紙を、一冊にまとめて本にし、「使徒経」と呼んで大切にします。正教会の奉神礼の中で、「使徒経」と「福音経」はセットにして読まれます。正教会にとって聖書とは何よりも「祈りの書」なのです。
イオアンによる「黙示録」は、特別な書物であり、勝手な解釈を施さないよう注意が必要です。
新約聖書の原語はギリシャ語であり、それらを写本して伝達してきたのは、正教会であるという事実は知っておくべきです。旧約聖書と新約聖書、二つが一つになって「聖書」が成立します。この「聖書」を、私たちは「従順さ」をもって読む必要があります。つまり、「神の言葉」に耳を傾けようという思いがなくてはなりません。聖書の学術的研究(考古学的なものや文献としての批判など)を否定するのではなく、それらを超えて存在する聖書の中の「神の言葉」をいつも求めるべきです。さらに、聖書は正教会の導きにおいて読まれなければなりません。正教会の導きは奉神礼や聖師父たちの言葉の中にあります。正教会は、聖書を読む私たちを、イイスス・ハリストスご自身のもとへ導いてくれます。だからこそ、聖書は救いの書であり、祈りの書であり、神の臨在の書なのです。正教会の聖伝を生きる人は、聖書を「自分のことが書いてある書」として読むことができます。罪を犯したアダムとは私のことであり、信仰深いアブラハムは私の模範である、と。
罪と救い
神様は、「聖伝」をとおして、特に聖書をとおして、私たち人間がいかに神様に背いているかを教えておられます。神に背くことを罪と言います。「罪」と訳されるギリシヤ語は「ハマルティア」と言い、「的を外す」という意味をもっています。人間があるべき姿を失うことは罪であり、なすべきことをせず、してはならないことをすること(実際の行動においてだけでなく心の面においても)が罪です。すなわち「罪」とは、単に国の法律を破るとか、道徳上許されないことをするとか、マナーを守らないなどということ以上のことを指します。心の中で悪意をもつことや、プライドをもち自己中心になること、神の教えとは全く逆の生きかたを続けること、何よりも神ご自身を無視してしまうことが「罪」です。
旧約聖書によれば、人間は神に似せて造られました。言い換えれば、神は人間に自由意志を与えました。この自由意志によって神に従順に従うことが人間のあるべき姿です。しかし、最初に造られた人間アダムは、神の意志に背く不従順の道を自由意志によって選択してしまいました。
創世記には、「善悪を知る本」の実を食べると神にようになれる、という蛇の誘惑によって、アダムとエワが陥罪したと記されています。神は「善悪を知る本の実を食べてはならない、それを食べた日には、あなたは死んでしまう」と言いました。「食べる」とは「生きる」という意味です。「善悪を知る本の実を食べる」というのは、「自分が神様になったかのように錯覚し、善悪を知ったつもりになって真実の神を無視するような生き方をする」という意味です。しかし、アダムとエワは、神の言葉ではなく、蛇(悪魔の象徴)の言葉を信じてしまいました。生命の源である神と分離する生き方を、自分で選んでしまった人類は、死ぬものとなってしまいました。死は罪の結果であり、神様が最初から意図されたことではなく、人間の自由意志によってもたらされた不条理なのです。
聖書において、すなわち正教会において、罪、悪、魔苦難死という事項はすべて一つのものと見なされます。罪とは悪であり、それは悪魔によって人間にもたらされ、そしてその結果、苦難や死が生じたからです。
三位一体に似せて造られた人間は、多くの個でありながら一つのものです。つまり、アダムと私たちは一つのもの一体のものなのでアダムの罪は私の罪、私の罪は人類の罪です。人は、罪の蔓延する世の中に人間として生まれます。しかし、西方で発展したキリスト教であるカトリックやプロテスタントでは、アダムの罪の結果、厳しい神の罰をも全人類が受け継いだと強調します。人間は生まれながらにして罪人であり、罪人である以上、神の裁きと罰を受けるものであるとし、全く自由意志の力を失ったと教えます。正教会はこのような「原罪」と呼ばれる考え方を否定します。アダムとエワによって神の似姿は壊されてしまいましたが、まだかろうじてその似姿(神の像)は残っていて保持されている、と正教会は教えます。どんな人間でも、まずはそこに「神の像」を見るべきです(ただしそれが破損していることも事実です)。人間に残された神の像は、神を求める自由意志を弱いけれども持っています。人類が受け継いだのは神の罰ではなく、破損した似姿です。しかし、神に従うか従わないかの自由意志は、私の選択権として最後まで残されていますが、人間が自分の努力によって、破壊された神の像を回復することは不可能となりました。 「罪」というものをどうとらえるかによって、「救い」についてのとらえ方が変わってきます。
西方教会では、「原罪」の考え方から、全人類に対する神の罰をハリストスが身代わりに受けてくれたことによって救われると強調します。つまり十字架を、全人類のため、私たちの代わりにハリストスが引き受けてくれた刑罰だったと解釈します。私たちはそのままでは全員地獄行きだけども、私にはその刑罰に耐える力はないので、ハリストスが身代わりになってくれたというわけです。確かに、聖書には、「苦難の僕」という有名なイサイヤの預言があり、そこには、人々の罪を引き受けて受難するメシアの姿が記されています(53章)。正教会でも、この「苦難の僕」は、ハリストスを指すと解釈します。しかし、ハリストスは罪だけではなく、私たちのすべてを引き受けて十字架にかかったことを見落としてはなりません。では、正教会の教える「救い」とは何でしょうか。「罪」が「あるべき姿を失う」ことであるなら、「救い」とはそれを取り戻すことです。「罪」が神との分離、神の像の破損であるなら、「救い」とは神との一致であり、神の像の回復です。「罪」が悪魔、苦難、死と一つのものなら、「救い」とは悪魔の敗北、苦難の終結、死の死滅です。これらすべてを、私たちのためになさったのが、人となった神ハリストスの十字架と復活です。神が私だちと同じ人間になったという「籍身」によって、すでに私だちと神との一致の道が開かれました。完全な神の像であるハリストスによって、私たちの神の像は回復されます。そして私たちがどうしても通らなければならない死という究極の不条理を、ハリストスはご自分の死と復活によって、敗北させました。
正教会では「ハリストス、死より復活し、死をもって死を滅ぼし」と復活祭の時に歌います。かリストスの死と復活は、死の本質を変容させました。死はもはや不敗の敵ではなくなりました。死を滅ぼすハリストスの十字架は、悪魔の敗北でもあります。ハリストスの十字架は、復活の印です。ハリストスの十字架は勝利の旗です。ハリストスの十字架は生命を与える力です。洗礼を受けるということは、救いを与える十字架と復活のハリストスと一つに結び合わさるということなので、「信経」で「我、認む、一の洗礼、以て罪の赦を得る、を、」と言います。もちろん究極的にこのハリストスの「救い」をいただくか拒絶するかは、私たち一人一人の意志にかかっていますが、「救い」は人の努力によってではなく神によってのみできることを忘れてはなりません。
生神女マリヤ、聖人、聖師父
私たちに救いを与えるイイスス・ハリストスを生んだお方が、生神女マリヤです。「生神女」とは「神を生んだ者」という意味のギリシャ語「テオトコス」の訳です。もちろんマリヤが新しい神様を存在させたのではありません。マリヤから人間として生まれたイイススは、実は神様としての「格」をもつお方なので、大胆にも「生神女」と呼ぶことができるのです。マリヤを「生神女」と呼ぶことは、神が人となったことを信仰することに他ありません。そういう意味で、正教会では単に「聖母」とは言わず「生神女」という言葉を大切に使用します。
生神女マリヤは、また「童貞女」とか「永貞童女」と呼ばれます。それは処女であるにもかかわらずハリストスを生んだからです。この不可思議な出来事は、人間の理解を超えています。正教会は、童貞女がいかにしてイイススを産んだかについては、素直に「わからない」と言います。しかし「なぜそうなのか」と問われれば、生まれたイイススは只の人間ではなかったから、つまり神様が人となったお方だから普通の出産ではないのである、と答えます。マリヤを「童貞女」と呼ぶことは、神が籍身したことの証しなのです。聖書に記されているイイススの兄弟たちについては、正教会では従兄弟かイオシフの先妻の子供たちであると解釈します。
しかし、生神女マリヤは、ハリストス降誕のための単なる道具ではありません。マリヤが自由意志によって神のみ旨に同意したからこそ、籍身が現実となったのです。マリヤは、「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と言いました。神の言葉への従順を表すこの一言が、私たちに「救い」をもたらしました。正教会では、神の言葉に不従順だったエワの罪と、神の言葉に従順だったマリヤの信仰がよく比較されます。それで、マリヤは「第二のエワ」とも呼ばれます。
愛
正教会の聖伝は、聖書の教えにあるように、神を愛し、人を愛することが一番大切なことと教えます。罪とは、神と人を愛さないことであり、救いとは、神と人を愛し始めることと言えます。マリヤも聖人たちも、この愛を行った人々です。ハリストスは、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一いうにあなたの隣り人を愛せよ』。」と教えられました。
「心をつくし…主なるあなたの神を愛せよ」とは旧約聖書の申命記6:5の言葉であり、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」とは同じく旧約聖書のレビ記19:18の言葉です。ハリストスはこの二つを「同じよう」に大切であると言いました。神を愛するということと、人を愛するということは同じことです。神を愛する人は、人を愛します。人を愛する人は、神を愛しているのです。なぜなら、神は愛であり、人は神に似せて造られ、そして神は人となられたからです。
「神は愛である」と言うことができるのは、神が至聖三者(三位一体)だからです。愛とは、自己ではなく他者を互いに完全に愛しし合うことです。父と子と聖神という三つの者が完全な愛をもって一つになっているので、神は至聖三者の神である、というだけで完全な愛であるのです。そして、神様は、人間を造り、ご自分の愛を分かち与えました。人間の愛は、神に起原をもちます。神様がまず私たちを完全な愛をもって愛して下さっています。「人が神に似せて造られた」ということは、神の愛を受け取る力、そして神を愛する力、また互いを愛する力をいただいたということです。どんな人の中にも神の似姿があります。神を愛する人が、その似姿をもつ人間を愛さないなんてことはありえません。人を愛することは、人となった神を愛するのと同じです。ハリストスは、愛の行いをした人々に「これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、私にしたのである」(マトフェイ25:40)と言われました。
神を愛し、人を愛しなさいという教えは、旧約聖書の時代から教えられてきたものです。それを具体的に「いましめ」として要約したものが「十戒」です。「十戒」は、モイセイがシナイ山で神様から直接受け取った教えであり、二枚の石板にその言葉が刻まれました。「十戒」の前半は、いかに神を愛するか、後半はいかに人を愛するかがテーマになっています。